すきって

この記事には特典会でのやりとりを含みます。タイトルやこの情報からモヤっとしそうな方はご注意ください。

また、現場に行きたくても行けないひとはもしかしたらウッ……ってなっちゃう内容を含むかもしれません。

大多数に向けたわけではない言葉を含みますので、引っかかっちゃうかもと思う方はご遠慮いただいたほうがご自身のすこやかオタクライフをお邪魔しないかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

すき、って

 

 

 

言えなかったなって後悔はしたくなかった。

あのとき言っておけばなんて思いたくなかった。

直接会って話せることが当たり前じゃない、が何重にも重なるあなたにせっかくあえるのだから、言わなくちゃ、今日。

 

 

 

初めて、推しに面と向かって、直接会って、「だいすき」と言った。

それさえ言えればもう、その日はなんだってよかった。それだけ言いに行った。

 

それに対して彼は、普段から伝わってる、と言ってくれた。

その上で、「返せてるかな」と口にした。

 

 

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『伝わってる』

 

 

今年10月・11月、何度かあったドルイベのために東京に行った。

推しはたいそう驚いたようで、その後の特典会で何度もそのことに言及された。

 

彼が驚くのも無理はないだろう。

私が彼を応援しはじめたのは2020年のことだ。

初めてコミュニケーションをとったのは電話、初めて顔を見せたのはオンライン推しチェキ。

客入れライブが再開されてからも、状況と自身の考えからなかなか足を運ぶことがかなわなかった。彼のセンター曲が観客を前に初めて披露されたあの日も、幕張メッセ公演のあの日も、私は自宅で画面をみていた。

初めてライブを生でみたのは、FCの推しメン登録欄で「フォーゲル」を選んでから1年半近く経った頃だった。

 

私がライブを配信でばかりみていたのは「配信があるなら配信でいいや」と選択していたからではない。本当は彼の表現をこの目で追いかけて全部受け取りたいと心の底から望みながらも、泣く泣く配信を選んでいただけだ。

現場に足を運ぶようになったのは、いわゆる“モチベ”が高まったからではなく、単に状況と考えの変化の結果だった。

 

だから私がドルイベにいたことに彼が触れるたびに、いや私はあなたがみせてくれるものなにひとつ見逃したくないの、状況が許す限り足を運ぶのは今の私にとって当然なんだよ、もしかしたら在宅勢が急に遠征勢になったように見えてるかもしれないけど気持ちはずいぶん前から遠征勢なんだよ、そんなに毎回驚くかな? なんて思ってしまっていた。

 


12月。年内の特典会はあと2日。暮れの元気なご挨拶をするには最終日だけでは時間が足りないと、ご挨拶前半戦のつもりで臨んだ土曜日。

終わりがけに席を立つ私に、彼は滑り込みで「ドルイベにいたのが衝撃だった!」と言った。

いやそれ今年振り返った今言うほど衝撃だったの? そんなに? と、また私は思った。

 

その翌日、年内最後の特典会。

今日こそ言わなくてはと私が口にしただいすきに対し、彼は、普段から伝わってる、と言った。

リプライや特典会等で私が彼に向けるものからも伝わっているし、それだけでなくライブや特典会に足を運ぶという行動からも伝わっている、と教えてくれた。

特にドルイベについて、感慨深げに思い出すように話してくれた。

「きてくれたっていうのが。めっちゃおもってくれてるんだ、って」

「それだけおもってくれてるんだなっていうのがやっぱさ、行動に出るっていうか、そういうとこでみえるし」

 

このときまで私は、全然わかっていなかった。彼の言わんとするところを。

単に私といえばオンラインのひとというイメージが抜けないとか居住地の印象が強いとかドルイベという現場にいるのが意外だとかそういう理由で驚いていただけじゃなかったのだと、やっと理解した。

 

彼は、私の彼に対する気持ちが行動になったものを、また愛に変換しなおして受け取ってくれていたんだ。そのことを何度も伝えてくれていたんだ。

 

彼は「伝わってる」と言ったけど、これは彼にだいすきが伝わっているというより、彼がだいすきを読み取ってくれている、じゃないか。

 

 

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『返せてるかな』

 

 

アイドルにファンがすきですって言ったら、アイドルは「えーありがとう(棒)」って返せばもう120点じゃない? 感謝の文言述べられれば万々歳というか。「俺もすき〜(棒)」なんて言い出した日には8億点。

そこを彼は、返せてるかな、って。いやいや、返せてる、とは? 返すという発想、何? その思考、え?

こっちの何かしらを受けて、少なくとも彼がこれ以上返す必要なんてどこにあるんだ。

 

 

これは常々思っていることだけど、

彼らの活動のなかには、(おそらく)必ずやらなくてはいけない(と思しき)お仕事、のようなくくりのものがあると思う。グループとしてのライブやその準備、特典会や撮影、何かにサインをするだとか、その他表に出てこない諸々。しらんけど。

そういうものをちゃんとやってくれているという時点でまずお仕事としては十分、という感覚が私にはある。

しかもただやるだけじゃなく、彼はいつも新鮮に魅了してくれる。

例えば歌もダンスもレベルアップしていく姿にはそこに至るまでの努力を感じざるを得ないし、ライブで楽しい!を共有してくれる姿のきらめきといったら他の何物にも代えられない。



そのうえ彼は、その他の活動も活発だ。

彼らを多少なりとも追っている方であればきっと、彼の丁寧な告知や現場後のサンクスツイートにお写真、まめなブログ更新や少なくない頻度の配信を何かしら目にしているのではないだろうか。グループ以外での踊ってみた作品だってコンスタントにアップされるし、最近ではTikTokも投稿してくれるときがあったり、レッスン動画をみられる機会もある。(余談;この文は歳末供給セール前に書いた)

 

2021年1月9日の朝の配信で彼は、その配信自体を「補填」と表現した。

「最近さあ、今年入ってからまだ動画ちょっと出せてないなあとかさ、夜に放送できてないなあとかがあったから、それの補填」

twitcasting.tv

即座に補填のつもりじゃない、(コーヒータイムの)ついで、と言い直していたけど。(ついでというのは、この配信は見なくちゃいけないものじゃないよ、という気遣いからくる表現だと思う。)

きっと「補填」が外に出す言葉として適当ではないと判断して否定したのだろうけど、私はその言葉に彼の感覚があらわれている気がした。

みているひとに向けてこういうことをこのくらいのペースでしようとか、そういった何かしらの基準や目標、目安のようなものがきっと彼の中にあって、それが満たせなかったらできうる別の方法をとって補填しようとする、そんな姿勢が想像できる。さすが顧客満足度No.1。

(こんなこと言いながらこの日からの3連休は3日とも朝から配信していたし、今年動画出せてないって言うけどまだ9日だし、夜放送できてないとか言うけど夜以外に既に数回放送してくれてるし、どんだけ基準高いんじゃ。さすが顧客以下略。)

 

彼はこうして、必ずやらなくてはならないことを100%をゆうに超えるレベルでちゃんとがんばって、それらを通してたくさんのものをこちらに発してくれるだけでなく、他の+αも駆使して、こちらにもっともっと、抱えきれないくらい、いろんなものを届けてくれる。

  

 

そんなふうに彼が日々やってくれることを受け取ってこっちが勝手にすきになって、そして突然勝手に投げつけた「だいすき」に対して、彼は「返せてるかな」「返したくなっちゃう」と言うのだ。


もうその思考回路も含めて、私は彼から素敵なものをもらいすぎている気がして、どうしたらいいかわからなくて、うまく返事ができなかった。

 

 

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そうやって愛を受け取って、返したいと思ってくれて、もしかしたらそれを燃料のひとつにしてまた日々の活動に取り組んでくれて、私もまた彼の発してくれるものをできるだけ受け取ろうとして、そしてまた好きになって、それが言葉になったり次の行動になったりして、そして。

 

もしかしてこのラリー、終わらないんじゃない?って思えてしまう。

いつまでも続けていたい、なんて願ってしまう。

ああ、私いまきっと夢をみている。

 

 

不思議なことに、だいすきって言えれば満足だったはずなのに、言ったらもっと伝えたくなった。

勢いにまかせてただその音を発するだけじゃなくて、もっとちゃんと気持ちをのせたくなった。

 

 

 


ドルイベ、前にいたよね!って言ってくれたとき、なんか前になっちゃいまして、なんて反応しちゃったけど、本当は朝からずっと立ってたなんて知ったら、彼はなんて言うかな。

 

彼は今年最後に「思ってるより好きやから」と言ってくれたけど、

もしかしたら私だってあなたのこと、「思ってるより好き」だったりして。

 

 

 







推しのお誕生日をお祝いしたい

フォーゲルさん、お誕生日おめでとうございます。

ブログを書くつもりなんてなかったのに、お誕生日までの残り数時間、あまりに落ち着かなくていてもたってもいられずPCを開いてしまいました。拙い文章になること確定。今から何書くんだろう私。

2021年8月7日に向けて、私はなんだかいろんなことを考えてきました。だけど、結局まとまらないまま「推しの誕生日」を迎えようとしています。

 

考えたというのは、主に、「推しをどうお祝いするか」ということ。伴って、「祝う」とはどういうことなのか、ということ。

そもそも私の「お祝いしたい」という気持ちは、なんなんだろう、とか。

贈ることのない花束。本人が口にしないケーキ。写真に撮ってメッセージとともにSNSにアップする。それがどういう行為なのか分からなくて、答えを探すかのように、本人不在で推しのお誕生日を祝ういろんなオタクが漂うネットの海を泳いだ。

 

私の「お祝いしたい」は、噛み砕くとおよそこういったものだった。

お誕生日という大切な日を教えてくれていることに感謝して、特別大切にしていると示したい。

彼が生まれてきて、生きてきて、生きていることに、自分がよろこびを感じていることを表したい。

この日を迎えた彼におめでとうと思っていることを伝える手段がある幸せを表現したい。

 

これらは、私の発する「お祝いできて嬉しい、幸せ」といったメッセージの背景でもある。

 

じゃあどうしたら表現できるのだろうと考えて、いろんなところを通ったけれど、結局支離滅裂なまま着陸することになってしまった。100日前の幕張メッセ公演の頃はおろか、それより何十日も前からお誕生日どうしようだのカウントダウンどうしようだの考えていたのに、結局このありさまだ。これは来年に備えてこのまま365日考えるしかない。

とはいえなんやかんやと手を動かしながら見えてきた軸のようなものもあった。

この一年の彼の歩みを記念したい、称えたい、ということだ。

彼はいつもがんばっていて、いつもすごくて、すごいはやさで、だけど息切れしないように走っている。ときに仲間の手をかりたり、仲間に手をかしたりしながら。

そのがんばりを、輝きを、お誕生日をひとつの区切りとして、形にしたかった。

だから、たくさんアップしてくれたお写真をまとめたり、この一年のグッズを飾ったりした。結局ネットの海のオタクと大差ないことをした(と思っている)ので、もしかしたら世のオタクたちもこういう気持ちでフォトフレームに写真を入れてきたのかもしれない。全然違う意図でチェキを並べてきたひともいるだろうけれど。

結局私のやったことで表現ができたかというと微妙だし、私がひとりで推しのすごさを再確認して好きが増しただけ説は濃厚だ。やっぱり今から来年に向けて考えて動くしか。

 

何の話だ。

とにかく、今年うまく推しのお誕生日をお祝いできたかというとよく分からないが、2020年緑推しの範囲におそるおそる自分を入れてみたような(去年のブログ)ド新規緑推しからすれば、初めてきちんと推しのお誕生日をお祝いしたいという自分の気持ちに向き合った期間だったことは確かだ。

お誕生日をお祝いするという当たり前のような行為に至るまでの気持ちを分解したのは初めてだ。それもこれも、人生で初めての推しを推しているからこその経験だし、そこにあった気持ちは、フォーゲルさんという推しと自分のこの関係性、この環境だからこそ出逢えたものだ。こうしてまた、フォーゲルさんを応援していたはずが気づいたら知らなかった感情に出逢わせてもらって、自分の人生を豊かにしてもらっている。それでまた私は推しに、そうしてそこにいてくれてありがとうと思う。生まれてきてくれて、生きてきてくれて、生きていてくれて、そして、フォーゲルさんとしていてくれて、ありがとう。

 

 

大人だからわかっている。人生幸せなときばかりじゃないことだって。それが悪いことではないことだって。

だとしても、推しにはできるだけ長い時間幸せを感じていてほしいし、自分のせいでないことで悔しく苦くやりきれない思いをする瞬間はできるだけ訪れてほしくないと思ってしまう。幸いにも推しは日々ラッキーやハッピーを感じるのが得意なようだけれど。

それにしたって今日だけは、まっさらな未来を願いたい。まっすぐ前を向いて信じたい。

 

 

フォーゲルさん、

あなたの選ぶ道に光が、進む景色に笑顔が、歩く先に幸せが、あふれていますように。

願わくば、いつもあなたが私たちにくれる抱えきれないほどありったけの幸せが、あなた自身のもとにもおとずれますように。

 

お誕生日、おめでとうございます。

名前を呼ぶということ

私が初めてフォーゲルさんにきよみという名を呼んでもらってから、今日で1年です。

それはトークコール会、すなわちお電話でのことでした。

 

電話やビデオ通話等を利用したトークコール会やオンライン特典会と呼ばれるイベントでは、申し込み時に「呼んでほしい名前」を記入する欄があります。

アイドルさん側が、次はこのひと、と発信してくれて、きっと確認する意味もこめて名前を呼んでくれます。

受信側がきよみかどうかにかかわらず、彼は次に通話するひとが「きよみ」だと分かっています。



今月の対面特典会で、私は初めてフォーゲルさんにあうことができました。

ブースに入った瞬間、マスクをしている私を見て彼は「きよみちゃん!??!?」と驚いた声で名前を呼んでくれました。

そのとき私は初めて、彼はほんとうに私のことをきよみとして認識しているんだ、と思いました。

 

今までお話しさせていただいた時間のなかでも、彼が、きよみと名乗るひとがいること・その名前のアカウントがリプライを送ったり配信にコメントしたりしていることを認識してくれている、と感じることはありました。

きよみというアカウントからこんなリプがきたという記憶や、きよみちゃんはこういうひとだというイメージを少し持ってもらえているように感じる場面もありました。

 

でも、次に話すのが誰か分からない状態の彼のもとに私が向かうのは今月が初めてで。

その状態で「きよみちゃん」と呼ばれて初めて、彼が私の姿ときよみという名前を一致させて記憶していることが分かったし、

その場で今までにお話ししたことを振り返る中で、彼が私の姿をみて脳内のきよみフォルダを開くことができて、その中のデータを引っぱり出せることを、初めてちゃんと知りました。



 

覚えていなければ、名前を呼ぶことはできない。

名前を呼ぶことは、覚えていること、忘れていないことの証明になりうる。



名前を呼ぶとき、その名前のひとを想わないひとはいないと思います。

 

 

先日の全員放送で気まプリさんが、

東京と関西を行き来していたとき、「名古屋ぐらいで気まぐれプリンスになってた」「帰るときは名古屋ぐらいで本名のほうの自分に戻ってた」とおっしゃったように、彼らのその名前は彼らの活動・人格・見た目などに密接に結びついたものだと思います。

ちょっと逸れるかもしれませんが、気まプリさんってよく「自分気まぐれプリンスで良かったぁ」というようなことをおっしゃっているイメージもあります。

彼らの名前は、彼らがその名前ですごしてきた時間、やってきたこと、その人格として存在することに直結するもののような気がします。

 

フォーゲルさんの名前を呼ぶということは、当然彼のその名前を知らなければできないことです。

知っているから呼べる。覚えているから呼べる。想っているから呼ぶ。

 

まじで緑推しありがとう

もちろんイルミィもありがとう。

 

(略)

 

これは本当にたまたまだけど

今年が自分のセンター曲でよかったのは

そのおかげで緑推しの事を

想像する時間ができたし

これが他のメンバーのセンター曲だったら

もしかしたら自分はもっと

胡座をかいていたかもしれない。

 

(略)

 

緑推し、ありがとう

 

みんなが言葉にできなくたって

動画や放送等々見てくれるだけでありがたい!

それは言葉にできなくても数字として見えるから

 

応援してくれてるだけで嬉しいから

何もできてないなんて思わないでほしい

知ってくれてるだけで万々歳🙌

https://lineblog.me/musumen/archives/8456130.html

 

 

2020年からのフォーゲルさんは、「緑推し」と口にすることがたくさんあったように思います。

私はそれ以前の彼を深く知りませんが、彼が「緑推し」と発したときの緑推しの先輩方の抱えきれなさをみるに、きっと今までそんなに頻繁に発してきた呼称ではなかったのだと思います。


2月末、烏合之衆お披露目ライブ前日の配信。

「緑推しの皆さんはお待たせしました」

「つい緑推しの方々ばっかりの言葉にはなってしまうんですけど、やっぱり、初めてのセンターっていうのもあったんで、今まではセンターじゃないことに対して僕的にはネガティブになったことはないですけど、センターになったらなったで、やっぱり、自分の推しもすごく喜んでくれるっていうことがすごく身にしみて分かったんで」

「ここまでありがとうございますって思います」

https://live.line.me/channels/2086993/broadcast/13016468

 

8月、お誕生日の配信。

「緑推しに関して言えば毎年ちゃんと言うの聖誕祭ぐらいかなと思うんですけど、ほんとに毎年毎年、感謝してるなって・・・え、なんかぐむ〜!

「僕がこんなに悔しいんだったら、緑推しの方々は満をじした年になるのかなあと思ってもいたので、それがかなわなかったときっていうのは……」

https://twitcasting.tv/forgeru/movie/633034171

 

12月末、年内最後の配信。

「今年は俺を知ってくれてる人との向き合い方がめっちゃ変わったなって自分の中で思ってて」

https://twitcasting.tv/forgeru/movie/659102524

 

2020年はこちらのことをたくさんたくさん考えて、なにかに取り組む目的のなかの、こちらのために、という軸の比重を大きめに、私たちの日々のなかに楽しい時間をつくれるように行動してくれたのだと思います。

 

思うように動けない日々のなかで、特別大きな想いで彼をみてきた緑推しのことを考えて、あえてイルミィ全体ではなく「緑推し」と呼ぶ機会が増えたのかなあとなんとなく想像します。

特に緑推しにあてたい言葉や想いがたくさん生まれたということかもしれない。

彼が「緑推し」と言ってくれるときは、他のイルミィさんと特に区別したいときであったり、その範囲に該当するひとたちに特に伝えたいことがあったり、そういう場面なのだと思います。

彼がもともと範囲を限定して言葉をあてることが多くなかったからこそ、「緑推し」と呼んで話してくれることは緑推しに向けられているのだということをよりくっきりと感じます。

ひとの思考なんて分からないけれど、きっとそのときの彼の脳裏には、何らかのかたちで緑推しがいるはずです。緑推しを想って、「緑推し」と口にしてくれている、そんな気がします。




先日のノックソさんの配信で、むすめん。・MeseMoa.の楽曲に度々登場する「名前を呼んでよ」という歌詞に関してお話しする場面がありました。

「声に出さなくてもたぶんいいんですよ、声に出して名前を呼んでっていう歌じゃないと思うので、『陽之鳥』は」

https://twitcasting.tv/nokkuso/movie/678820860

 

声に出して名前を呼ぶことで、そのひとを想っているということを表に出せるのだとしたら、

心の中で名前を呼ぶことは、想うことそのものではないでしょうか。



 

“名前を呼んでよ”




あなたのことを好きになってから、あなたのことを考えなかった日なんて一日もない。

私の思考に、感情に、フォーゲルさんの名前が登場しなかった日はない。

私の脳にその音が響かなかった日はない。心でその名前を呼ばなかった日はない。

 

 

 

初めてお話ししてから1年経った今もなお、私がライブ会場に足を運ぶことはまだかなっていない。

私がライブ会場で名前を呼べる日はいつになるかわからないけれど、

ずっと心の中で名前を呼んできたし、きっとこれからもずっと、心の中で名前を呼び続ける。

ずっと、フォーゲルさんを、想い続ける。

 

 

 

 

 

コーヒー放送に元気をもらう話

こんばんは。

2020年最後の個人放送で「地べたに座んなくてよくね?」と気づいてお気に入りの椅子に座ったと思ったら2021年はキッチンで立って放送しているフォーゲルさんを応援したいと思っている、きよみという者です。

今日は彼の初センター表題曲「烏合之衆」のMV公開から1年の記念日ですが、このブログにはそこまで関係ありません……と思ったら今朝もキッチンで立って(背伸びして)放送してくれたので、ちょっとは関係あったかもしれない。



先日行われた「Solo move」発売記念特典会のある回で、私はフォーゲルさんに、あのコーヒー放送のおかげですごくがんばれる、という話をした。

朝が苦手なフォーゲルさんがこの起きづらい時期に朝から放送してくれるという事実だけでその後何日もがんばれる、と言ったら彼は「何日も?! 1日限定じゃないってこと?!」と笑っていたけれど、本当にそうなんだよな。

(この1日限定発言は、1日は効力発揮しているだろうというちょうど良い認識が垣間見えてかわいい。推しの放送でオタクが1日はがんばれることをわかっていて放送してくれているの、好きだ。)

みんながみんなそうかは分からないけど、少なくとも私は何日もがんばれる。というか何日もって言っちゃったけどそれは放送後数日とかじゃなくて「思い出すだけでがんばれる」システムなので、効果はかなり持続する。1回の放送を何度だって思い出してがんばれるし、1回のみならず何回もやってくれているのでもうほんとうに何日も何日もがんばれる。(だから私はコーヒー放送めっちゃ好きだからめっちゃ好きって言うけど、好きだからまたやって!って意味で言ってるわけではない。)

 

ライブや動画作品とはまた別で、ステージをおりている状態の、例えばブログ、日々の放送やツイート、特典会でのお話とか、そういうものも思い出したり見返したりすることでがんばれたり心が支えられたりすることってたくさんある。

過去に発信したものと最新の彼の考えとは異なる部分もあるだろうけど、だとしても私は「そのときそう言ってくれたこと」を抱きしめてしまう。

そうやって何ヶ月も(あるいは何年も)前のことでも信じてよりどころにしていられるのは、彼がずっと変わらずがんばってくれているからだと思う。それに、ふだんからいろんな環境のいろんなひとがいることを考えてくれる彼のやさしさを信頼しているというのも大きい。

 

世の中がこんな状況になった影響を真正面から受けながらも、彼は自分のやりたいことややるべきことを見失っていない(ように見せてくれている)し、やれることを確実に増やしている。私はその姿を心底尊敬する。

前をみている姿だったり、口先だけじゃなく実際に着実に前に進んでいるパフォーマンスだったり、そういったものを発信してくれるからこそ、私は彼がものすごくがんばっているとわかるし、だからこそ彼の言動に背中を押される。

 

フォーゲルさんが放送した朝、Twitterをみると、放送をみていた緑推し以外のイルミィさんもたくさん感想をつぶやいている。フォーゲルさんの配信みて元気出た、私も勉強がんばろう、とか、放送みて自分も丁寧に紅茶いれてみた、とか、そういう、いつもの紅茶にひとくふう的な雰囲気を感じる。

私ももちろん、例えば朝寒いけど起きようとか、家事をがんばってみようとか、新しく担当する仕事が不安だけど前向きにやってみようとか、そういう、自分ひとりの意志だけではちょっと投げ出しそうになることを「いや、フォーゲルさんもがんばってたから私も」ってがんばるきっかけや理由にさせてもらっている。

彼はそういうふうにきっとたくさんのひとの生活にすてきな栄養を与えてくれていると思う。それってすごいことだよなあ。彼がこちらにみせてくれるものからこちら側が受けている影響ってたぶん、彼が思っているより大きいんじゃないかな。

 

そんなことを考えていたら、自分がいまの仕事を選んだ理由のひとつに「たくさんのひとの生活に影響を与えられると感じたこと」があったことを思い出した。まいにちにおわれる中ですっかり忘れていたけれど。

私のやっていることと彼のやっていることでは形からなにから全然違うけど、彼はひとりでこんなにひとを動かせるんだなあと思うと、彼の発するエネルギーの大きさを感じる。

 

なんかもう何を書きたかったかどこの誰にも伝わらない気がしてきたけど、とにかくフォーゲルさんってすごいってことを言いたかった。推しが日々がんばってくれて、その姿をみせてくれて、嬉しい。ありがたい。

フォーゲルさん、今朝の放送後に「良き1日を」ってツイートしてくれたけど、フォーゲルさんも良き1日を過ごせたかなあ。 

どうかフォーゲルさんとフォーゲルさんの大切なひとが心身ともに少しでも健やかに過ごせますように。結局最後にこんなことを書いてしまう。

 

先輩のみなさまへ

緑推し・イルミィの先輩のみなさま

 

 

拝啓



特別な年の暮れ、みなさまいかがお過ごしでしょうか。

くる年を健やかに迎えられそうでしたら幸いです。

 

さて今回は、2020年にこの沼に足を突っ込んだ新米の私から、

沼の中から手をひいたり引き返さないように背中を押したり歩きやすいように支えたりしてくださっている先輩のみなさまに感謝の気持ちをお伝えすべく、筆をとって、もとい、キーボードをたたいております。



私はたしかちょうど1年前の年末年始あたりから、なんとなくオタクという生き方に関心を持ち始めました。

社会人になって数年目、日々の生活にもずいぶん慣れた頃。周りにいる、何かに熱心に取り組んで時間やお金をつかうひとをみて、なんとなく、良いなあ、と感じていました。

 

私にも文房具が好きとかコーヒーが好きとかそういう気持ちはありますし、ファンクラブに入ろうか検討するアーティストや俳優さんがいなかったわけではありません。

ですが、実際に商品を購入するとかパフォーマンスをみにいくとかそういった行動にうつすまでのハードルを高く感じるタイプで、優柔不断なこともあり、なにかと先延ばしにしているうちに期を逸したり熱意が沈静化したり、といったことがしばしばありました。

最低限の生活に必要なもの以外を購買・消費するという行動に慣れていなかったのです。

 

そんな私からみると、ずっと誰か・何かを好きで、作品を買ったり宣伝したり遠出したりしているひとたちの姿は、どこかうらやましかったのです。

 

 

2020年が始まって早々、たまたまめせもあ。さんの何かのMVをみました。

今までに何度かみたことはあったのですが、先述のような興味をもった状態でコメントを読んだ私は、

このひとたちが盛り上がっている理由を理解したい!

このひとたちの感じている尊さを私も理解して共感したい!

と強く思い、まずはこのグループのひとのお顔とお名前を覚えてみることにしました。

 

だからまず、「この人たちの気持ちをわかりたい」と思わせてくれた、MVに沸いていた先輩のみなさん、ありがとうございます。



動画のコメント欄に並ぶ絵文字や頭文字らしきものがメンバーを表していることは察しがつきました。

「に」と「二」は違うひとなの? 「ノ」と「野」は? などと思いながらホームページと動画をいったりきたりして、「兄」はたぶんあだ名のようなものだということや、違う絵文字で同じ人を指していることもありそうだとか、まずコメント欄をなんとなく読める状態までいろいろと照らし合わせる作業をしました。

それから、「何分何秒 野崎さんかっこよすぎん?」「何分何秒 この二番くんが優勝だと思う」「何分何秒 👑🍎」のようなコメントを頼りに、うつっているひとが少ないシーンから少しずつ区別がつくようになりました・・・

と思いきや別の動画になるとどれが誰だかわからない! これが野崎さん? さっきの動画できれいな顔だなって思ったあの人?が?この人??? ってなってはコメント欄で答え合わせ。

コメントに少しでも名前を挙げてくれていた方、ありがとうございます。

 

そうやって動画をみたり画像を検索したりTwitterをみにいったり(以前あおいさんのツイートをみた記憶があった)ホームページをみたりあのマンガを何度も読んだり、、、

そうやってたしか2020年1月のなかばの週末2日で10人のことをざくっと知りました。

 

ここに書くのも逆におこがましい気がするのですが、あのマンガはどう考えてもありがたかったです。強すぎる。

あのマンガの影響で、このあと他のグループを知ったときにまず結成の経緯やどういう集団なのかを知りたいと思うようになったし、なんならマンガのようなものがないか探すようになってしまいました。

それぐらい、関係性やストーリー性みたいな部分からめせもあ。は応援しようと思わせる力のあるグループだということをわかりやすく示してくれていたし、動画のコメント欄で言及される「尊さ」の一端を理解することができるようになりました。

 

そう、再度書きますが、私の目的は「ここで沸いているオタクのみなさんの気持ちを理解して共感したい」だったので。

と言いつつ、メンバーを覚えて関係性を軽く把握して、となると、オタクに興味があるというのはだんだん建前というか言い訳のようになってきて、だんだんこのグループのことをより理解したいという気持ちが出てきました。



それから、比較的目にとまりやすく、もしかしたら好きなのかもしれないと思えた二番さんを中心に掘り下げる日々を送りました。

昔の動画をみたり、ネットに転がる真偽不明の情報を拾い集めたり。ほどなくして、今は歌えないということも知りました。

そうこうするうちに私はフォーゲルさんに興味をもつようになり、フォーゲルさんの情報も収集するようになりました。

 

ネットの海から情報を拾うなかで、オタクの方が書かれたブログをいくつも読みました。

初心者向けのメンバー紹介や接触の手引きのようなブログ、

MVの考察やライブ・接触の感想、推しや作品の素晴らしさを綴ったもの、

グループを分析するような記事もありました。

 

いくつもの記事を読んで、フォーゲルさんがかつてはきっとこんなひとだったんだろう、というイメージが形成されました。

ステージにたつひとであり応援される対象であるはずなのに自信がイマイチなくて、褒め言葉も素直に受け取ってもらえないこともあったらしいとか、歌に苦手意識があるようだとか。

 

そういうイメージを持って今年のフォーゲルさんをみたもんだから、私は「こんなことするひとだったの!? 私が知らないだけ?! あっ数年間推している方も驚いてるからこれは最近の変化なのか!?」とたいへん驚き、嬉しく思うことがたくさんありました。

そのときそのときのフォーゲルさんの姿を描写してくださったみなさん、ありがとうございます。

 

 

そういえば、トークコール会に申し込んでみようと思ったのも、第1弾のときの楽しそうで幸せそうなみなさんのツイートをどこからか拝見したからでした。そう思うと追加日程というものにも私はずいぶん感謝せねばなりませんね。

 

 

フォーゲルさんを応援したいという自覚が生まれてから少しした頃でしょうか。

記憶違いがあるかもしれないのですが、あるブログで、「こんなにも輝いている今の彼らに出会って、これから彼らの魅力を知っていく新規がうらやましい」といったような文章に出会いました。

もちろんその筆者の方はずっと前から彼らを応援していて、だからこそ持てる感情もたくさんあって、いろんなことを誇りに思っているからこその文章でした。

この記事を読んだからこそ、私は2020年にここにきましたと胸をはれるようになったんじゃないかと思います。




8月、フォーゲルさんのお誕生日のあと。

FFさんが小説の一節を引用して幸福や愛に関してツイートしていたのを覚えています。

それを読んで、私がフォーゲルさんに対して持ったり感じたりするこの気持ちは愛なんだ、と認識することができて、なんだかとても安心して応援できるようになりました。

 

私はいわゆるリアコになると精神状態がまずいことになるタイプだと自分で予測しています。

だから、恋の意味で彼を好きにならないように、この気持ちがもし恋だったら困るから好きになりすぎないように、と、おそるおそる彼をみていたのです。

アイドルを応援するなんて未知の経験で、知らない気持ちにたくさん出会って、こんなにこの人から目が離せなくて、ずっとこの人のことを考えて、これはともすれば恋なのではないか? 違う気はするけど、でも恋のようなものだったらどうしよう? と。

 

ツイートを読んで、そうだ、私がこんなにもこのひとに幸せでいてほしいと思うのは愛だ、としっくりきました。

「私は彼が好きで、彼にも私を好きになってほしい」「隣で一緒に幸せになりたい」じゃなく、「私は彼を大切に思っている」「自分に知らされなくても良いからどこかで幸せでいてほしい」のは、恋じゃなく、愛だな、と腑に落ちたので、おそるおそるのブレーキを外して彼をみることができるようになりました。

オタクという生き方に関心を持ち始めた頃には予想していなかったこの気持ちに名前をつけるとすれば愛であるという気づきは、自分にとってかなり大きかったです。

ありがとうございました。愛にあふれる8月でしたね。



 

こういうふうに、先輩方の日々のツイートや数年前のブログ、ここに書ききれないくらいたくさんの言葉たちに背中を押され、支えられ、緑の沼を歩いていく練習をさせていただいているなあと感じています。

本当に本当に、ありがとうございます。

 

 

 

 

最初に書いたように、私は腰が重く、きっと2020年がこんな年でなければ、ライブをみることはなかったと思います。

いろいろなことが重なった結果、オンラインコンテンツを通して彼らの魅力をたくさん知り、腰が重すぎたはずの私が現場に足を運びたいと強く思うようになったことは、私の中では快挙です。こんな日がくるとは。

それもこれも、フォーゲルさんやめせもあ。チームのみなさんだけでなく、ここまで手を引いてくれた先輩のみなさまのおかげです。このことを本当に強く感じているからこそ、こうしてブログにしているのです。

一方的に見て勝手に都合良く解釈してばかりいるかもしれませんが、でもみなさまのおかげで、私は自分史上初めての推しであるフォーゲルさんを応援したい気持ちを持ち続けることができています。

私のオタク元年を導いてくださったみなさま、心からありがとうございました。

 

 

 

ここ数日たくさんアップされる、イルミィさんの今年を振り返るようなブログ、

私が読んだもので他のオタクに言及していないものはほとんどありませんでした。

ひよっこだから先輩に感謝することがたくさんあったけど、きっと多くのオタクにとって周りのオタクってとても大切な存在なんですね。これも、今年知ったことのひとつです。

 

 

 

私のTwitterの下書きに数ヶ月間残ったままの一文をここで供養して、終わりにしようと思います。

 

ここはたぶんとても素敵な世界だ。




 

 

   敬具 って右端にするのどうするんだこれ

2020年12月31日

   きよみ も右端にしたいんだけどな

 

 

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*1:このブログは沼落ちブログver.2みたいなものでもあるので、もしver.1をお読みになりたい方がいらっしゃいましたらこちらをば…

推しにお手紙を書いたけど長すぎたから削ったとこもろともブログにした - mmuggd’s blog

怪物さんにとらわれた話

対比に魅せられた。

 


【フォーゲル・綾野れん】怪物さん【踊ってみた】

 




こんにちは。

フォーゲルさんを応援したいと初めて思ってから季節がみっつほど過ぎた気がします、きよみです。




先日公開された上記の動画。

アップされてから一時間、一周みてはTwitterに感想をつぶやきまた一周してはつぶやき、本家MVが気になってみてみたり本家踊ってみたが気になってみてみたりしながられんげるを何周もして、なぜかそのとき脚立に座っていたんですが、私の記憶では人生で初めて脚立に一時間座っていましたね・・・。

あまりにも何も手につかなくて、いやいったん怪物さんは置いておこう、となんとかみるのをやめたんですが、翌日もその翌日も刺さった槍がどんどん深くまで刺さる刺さる。

もうこれは流れ出る血で書いていると思ってください。ダイイングメッセージか?


※※注※※

ここに書いてるのは全部印象というか、印象から想像したものと言っても過言ではありません。解釈なんて言うのが憚られるレベル。ちょっと作品の感想としては想像多すぎなんだけど大丈夫かな。もし苦手な方いらっしゃったらごめんなさい。これはよくないとかあったら教えてくださいお願いいたします。

表現なのか癖なのかもわからないし、意図的にやっているかどうかもわからないけど、私が見たものを私はこう感じた、というテンションの文がずっと続きます。

あっあと、踊り方なんかはご本人たちの動きそのものから受けた印象を書いてはいるんですが、こういう感情をもってこう動いていそう、みたいな感情の部分についてはこの作品におけるこの人たちは、みたいな意味です。ご本人がどうこうということではありませんのでご理解いただけると幸いです。



私がれんげる怪物さんにどうしてそんなにとらわれたのかというと、この動画のさまざまな対比と、この楽曲の歌詞の構造に対応を見出してしまったからだと思う。勝手に。この時点でもう解釈の域を脱してしまっている気はしています。別にちゃんと考えたわけじゃないし、こじつけのようでもあるんだけど、私の楽しみ方がそうだったんだということで。

 

 対比はみんなもうこのお写真から言い始めてたのでわざわざ説明しなくてもという感じではありますが。

 

  

お衣装(色はもちろん、髪色とのバランスやボタンのあけかたも含めて)も対照的だし、照明だってそう。

踊ってみた本家はもっと色のあるところで撮影されているけれど、こちらはスタジオも床と天井が白で壁が黒。

本家では白い衣装の方はボトムスも白だけど、こちらはおふたりとも黒。白い床に足さばきが映える。

照明も、本家はちょっとピンクっぽいものと黄みがかった緑?のような色で、こちらは赤と緑。

私は本家のほうがより不気味な印象があって、怪物という言葉自体には近いように感じた。妖怪とかそういうものを連想してもおかしくない奇妙さがある色味というか。

れんげるのほうが色の温度感としては無機質ではあるんだけど、そういう妖みたいなイメージはあまり受けない。温度感あるほうが人間味あって無彩色のほうが機械っぽさとかを連想させると思ってたんだけど、今回は人ならざるものの方向性がロボットとかじゃないもんなあ。っていうか『怪物さん feat.あいみょん』って曲名がすごい。怪物さんて。

画的には私はれんげるのほうを美しいと感じます。モノトーンが好きなのもあるけど。

本家MVの画面も色にグラデーションはあるけどのっぺりしていて素材感が少ない。奇妙な空間。

で、何より私はこのお二人の踊りの対比にもうやられてしまったんですよね。

なんと言っても力の入れ方!

同じだけ身体を動かしているのにつかっているエネルギー量が違うように見える。綾野さんはワッって動かしてフォーゲルさんはフッって動かしてるみたいな、それがこの曲に合う〜〜〜!(そこそこ文字数あるブログにしては表現が雑だし美味しいもの食べたときみたいなリアクションで申し訳ない)

 

まず綾野さんの身体に入る力や視線の強さ。

お顔をこちらに向けているとき、前のある一点を固定でみつめている印象があって、強い意志があるように見える目をしている。何か確信でもあるかのようなニヤッとした表情が1番から見られる。

歌詞はこちらが相手より下というか、相手を追う側の目線だと思うんだけど、綾野さんは下の立場っぽくない強気さがある。ときどき顎が上がるんだけど、視線の先が変わらないからいわゆる上から目線的な角度になるのもその一因のように思う。

(具体的・現実的に解釈するのは野暮だと思うけど)例えばこの歌の主人公がざっくり相手に浮気された立場だと仮定すると、綾野さんは相手に対して怒っているけど手放す気も離れる気もないみたいな感じがする。

そして綾野さんの重みをつかって描く軌道の美しく力強いことと言ったら! これはもう最初から最後までそう。きれいに踊るひとね。

「いっそ いっそ いなくなれ」は、どこかにほんとうに飛ばすよう。

 

対してフォーゲルさんは力の入っていない目をしている時間が長い。体がカメラのほうにむいていても、視線は落ちている。諦めの割合が高く見える。諦念というか、達観というか。「私」が「あなた」を好きなのも、あなた以外を好きになれたらいいのにと思いながらもどうしようもなく離れられないのも、なんかもう全部わかっているように感じられる。

フォーゲルさんの「いっそ いっそ いなくなれ」は綾野さんほどの勢いがなくてどこかふわりと丸い。これも私には“全部わかっている感”に見える。あなたを好きな私いなくなれって言ってるけど、いなくはなれないこと、あなたを結局好きでいることをわかっているから、飛ばしきれない。

「小石蹴るみたいに嘘ついて とりあえず安心させていて」や「私からは何も聞かない」でフォーゲルさんが前のほうにいるのも、そういう意味でぴったりだと感じたんですよね。うまく言えないけど、どうせ嘘と分かりながらも嘘をついて安心させてくれている間はまだ一緒にいられるからそれで良くて、何か聞いたところで内容もほとんどわかっているし、聞いたって嫌いにはなれないこともわかっている、みたいな。

 

フォーゲルさんは最初は抑えたような表情をしている時間が長くて、初めて比較的はっきりとした表情をするのは「知らないって 知らないって 笑っていたい」の笑みだけど、その直後のサビ前にはそういう表情は消える。こういうときの表情とかサビ終わりの柔らかい微笑みとか特に、フォーゲルさん自身のパフォーマンス的なものなのか作品の世界を踏まえた表現なのか本家がそうしているからそうしてるのかとか、全然わからない。その中にどういう感情があるのか読み取りきれない。(そもそも本家は私が見る限り物語の中のひとというよりは単に踊っているひとの表情が出ているように思う。フォーゲルさんには作品の世界の感情が乗ってる気がするけど)

でもそういうどこまでがフォーゲルさんなの・・・って思わせるところもめっっっちゃくちゃ魅力。ひかれてしまう。

 

フォーゲルさん、1番の終わりあたりからだんだん口があいてくるのも、余計な力が入っていない印象を持たせる。綾野さんの口は結ばれているか歌詞通り動いていることが多い気がする。

で、「ピンクのフィルター」は綾野さんにかかると思うんですが、私の見方ではこの作品中の綾野さんは、他のひとと違うって言ってよ、フィルターかけて好きでいてよ、って言いそうな雰囲気があるので、諦めの入っているフォーゲルさんじゃなくて強気さのある綾野さんが「私にピンクのフィルターをうまくかけて見ていてよ」担当なの、解釈一致です。(勝手に書いといて何言ってんだ)

 

「私からは何も聞かない」の振りは本家とかなり違っていて、フォーゲルさんはこちらを向いて歌詞をはっきり口にするし、表情も余裕がある。聞かないことをそんなふうに意思表示するの、たしかに嘘も呑み込みそう。そしてこのあたりから温度感のある表情が増える。

「知らないって 知らないって 踊っていたい」のフォーゲルさんのテイストかなり際立っていると思うんですけど、このわざと踊らされてあげている感が明確なの、フォーゲルさんが他の場面でここまでポップにしていないからだと思う。綾野さんはここに限らず楽しげにみえるところが多いのでここが特別とまではいかないというか。

サビの「いっそ いっそ いなくなれ」も2番のほうが少し口角があがって目を細めている気がする。だんだん体温が上がっていく印象。(のちにアップされた定点バージョンではカットが長かったり違う映像だったりしてこれはこれでまた違う印象だったんだけどそれも入れると大変なことになるので置いておきますが私はかなり好きです)

 

ラスサビ?の、「でも本当は」から始まる、二人が並んで前に歩いてくるところ、綾野さんはけっこういろんな表情をしていてどこを見るにしても意図があって、言うてもこの恋愛を楽しんでいそうな感じがする。フォーゲルさんはもう本当に虚空をみている。(…んだけど、一瞬こっちがギャッってなるニヤッっとした表情するんだよな急に。あれは曲の世界のひとというよりフォーゲルさんなんじゃないか。)(ここの一連の表情まじで定点バージョン全然違うのでみてください)

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いやほんとすごい差じゃない?
 

この曲は「でも本当は」と始まるサビで「いなくなれ」と言っているものの、最後の最後「あなたがいない私なんて、本当は考えられないの」と本当の本当のところを口にして終わる。

フォーゲルさんの諦めを帯びつつもだんだん熱を持っていく表現がこの最後の最後に本音が出るのにぴったりで。

フォーゲルさん自身の踊っていてノッてくる感じと曲の展開や振り付けがあいまって、どこかふっきれていくというか、諦めの方向が「どうせそうなんだよ…どうしようもない……」だったのが「どうせそうなんだよ、どうしようもないんだよなあ!」みたいになっていくというか。下向いて諦めてたのが上向いた諦めになる感じ。(いやニュアンスすぎる)


この曲の特徴のひとつに歌詞の言い回しが挙げられると思います。この世のいろんな歌がざっくり言えばあなたが好きみたいなことをいろんな方法で歌ってるわけですが、この曲は「あなたを好きな私」、「あなたじゃなきゃ絶対嫌な」私、「わずかな期待止められない」私、いろいろ言うけど結局「どっか向いててもそばにいて」「あなたのままで優しくして」と願ってしまい「とにかく今日も会いたくなる」私を「いなくなれ」や「消えてしまえ」と表現して、いっそいなくなってくれと願うほどあなたが好きで苦しいと言っていると私は思っています。

そういうふうに言葉自体と内容が裏腹で反語的だったり、歌声が男声と女声だったり、MVのモチーフがだるまさんが転んだ(相手がこちらを向いているときにはこちらから相手にアプローチすることができなくて、近づいて、触れて、振り向かれたら離れる)だったりする、そういう曲の構造と今回の踊ってみたのいろんな対比に、大枠の構造がまず正解じゃんって思っちゃったんですよね。なんも考えてないけど、この言い回しにこの対比よ!ぐらいの感覚で。

 

フォーゲルさんのほうが体の力の流し方が自然なのかなあ。ダンスなんもわからんけど。

綾野さんのほうがここからここに動かして、こっちに動いて、ここはこう、みたいなのが強くて、フォーゲルさんは勝手にそう動いてるみたいな感じがする。自分のなかからわきあがるものに突き動かされているみたいで、それが重力と同じぐらい自然にはたらくもののように見える。(ひとの振り付けを頑張って覚えて踊っているはずなんだけど。)(なぎげるペアライブのときになぎちゃんさんが自分は移動のときとか抜けちゃいがちで〜って話してたけどそういうのの一環というか、綾野さんはやっぱりこっちからこう動いてみたいな移動感がある気がするんだけど、フォーゲルさんはなんか思いのままに動いてたらそうなったように見える)

カッコが長くなったけど、要するに、綾野さんは意志を持って身体を動かしているように見えるから、それが意志を持っているようにも見えて、それに対してフォーゲルさんは中から動かされているように見えるうえに流れに身を任せているようにも見えるから、気持ちが揺れ動いているように感じられる。

あとフォーゲルさんは必要なときに必要なだけ力を入れてそれ以外の余計な力は入っていないように見える。余談ではあるけど、同じく10月にアップされたDynamiteでも、2:48あたりですっごく力を抜いて踊っていることがよくわかる。好き。Dynamiteに関してはコメント欄をみていても(フォーゲルさんに限らず)抜くとか上手なゆるさみたいなのが評価されている様子。わかる。

 

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余計な力が入っていないフォーゲルさん

 

でも「知らないって 知らないって」とかのBメロ?では実は綾野さんはそんなにバキバキしてはなくて、ここについてはフォーゲルさんのほうがここ、ここ、ってポイントで止めてるんだよな。いやぁ。

 

それから! 絶対に目をひく服の動き!

踊り方とお衣装自体の色によるものが大きいとは思うけど、それぞれの服の動き(の見え方)まで素晴らしいと何度見ても思う。

綾野さんは服の布までぱりっとして見える強気さがあって、フォーゲルさんの服はふわりと動いたり腕ですくいとられたりしている。ファッションモデルさんはランウェイでスカートをふわりとみせる動きを練習するって子供の頃きいたことがあるんだけど、きっとそういうふうに綾野さんフォーゲルさんそれぞれああいうふうに布が動くような身体の動きをしてるんだよなと思う。意図の範囲外でも身体の動きが違えば布の動きも変わるのは当然だと思うので。

(しかしお衣装まじでサイコーじゃない? ため息がでるほどセクシー。はあ。アッため息ついて幸せ逃げたら嫌なので吸います。スゥゥ)

 

あとはもう余談も余談なんですけど「いっそ いっそ いなくなれ」という歌詞、『ツギハギスタッカート』にも出てくることに気づいたときはうわあっ・・・!ってなりましたね。 「君よ いっそいっそ いなくなれ」なので、「いなくなれ」の対象は違いますが、いなくなれと願ってしまうほど苦しい好きを抱えているのは同じじゃないですか……。

フォさんはスウィートタイムからツギハギをつなげてましたがそれやりはじめると大変なことになるしもう本格的に想像でしかなくなるので終わります。

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こんなよくわからん文章を読んでくださった方いらっしゃいましたらありがとうございました。私が何にとらわれていたかを世に公開したばかりに……。

最後にもう一度リンク貼っとこうかな。あと定点バージョンもまた違うからみて。これタイトルの最後「定点.ver」で投稿されてるのじわる。

それではみなさまどうかお元気で。きよみでした。

「夢を、少しの間、みさせてもらえないでしょうか。」

こんにちは。きよみです。今回は140字におさまらなかったツイートみたいなブログです。(?)

 

 

去る2020年8月28日、無観客で開催・配信されたMeseMoa.全国ツアーGALAXY.5 FINALにて、MeseMoa.の2021年4月29日幕張メッセでの公演決定が発表されましたね。

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発表後、白服さんから、昨今の状況を踏まえたご挨拶がありました。

絶対にできるとは言えないし、強行突破するつもりもない、でもこのチャンスを逃したら、次にできるのがいつになるかわからない。

開催できなかった場合の金銭的なリスクもあるけれど、前に進む選択をした。

かいつまんで言えばそういったお話でした。

そして白服さんは、幕張メッセ公演をわずかな希望としつつ、

「夢を、少しの間、みさせてもらえないでしょうか。」とおっしゃいました。

 

その言葉にどきっとしたので、ブログを書いています。

 

 

高3の冬、センター試験を終えて、さて国公立の出願、という時期のきよみの話です。

(※高校生の私の世界の感覚で書きますので、感覚が違うなと思われる方もいらっしゃると思います、高校生を見ていると思ってゆるしていただけるとありがたいです。)

関西在住なので関関同立を滑り止め兼練習にして、国公立前期はちょっと厳しいけどここに挑戦するとして、問題は後期だなあ、と悩んでいました。

 

高校生の私は、大学で勉強してみたいと思っていることがありました。

それが仕事になるのかはよくわからないけど、知りたい、学びたいという気持ちがある分野というか。

で、学ぶならこういう大学がいい、この大学のこの学部学科がいいな、行けるかどうかは微妙だけど、みたいなのがあって。

一方で、その勉強はできないけど、十中八九合格するであろう地元の大学(A大学としましょう)に進学して、確実に教員免許をとって、地元で先生やって、っていうのも幸せだよな、みたいなのもあって。

なんとなく現実的なのはA大学だよなあってずっと思いながら受験期を過ごしていたし、実際後期はA大学に出願しようとしていました。

ですが、センター試験の結果を見た親が、これだけ点が取れているのに A大学はレベルを下げすぎじゃないか、もったいないんじゃないかと言い出し、やたらやる気を出して調べては、B大学やC大学なら前期の挑戦校より難易度は落として学びたいことが学べるんじゃないのかなどと私に提案してきました。

それでも私は受験生をもう1年もやるなんて無理という気持ちが強く、なにより諦めなどではなくニュートラルに「A大学行って先生って道も良いよな」と思っていたので、本気でA大学に出願するつもりでいました。

 

でも、あるとき、

 

きよみはこういうことに興味あるんやろ。

A大学やったらその道はここで絶たれてまう。

でもB大学やったら、将来その方向に進まんかったとしても、少なくとも4年はその夢がつながるやんか。

 

そんなふうに言われて、

ああ、あと4年、夢を見てもいいのかも。

と思ったのです。

 

そうして私は後期でB大学に出願することにしました。

 

 

私が言葉だけで思い出して書き連ねた受験期の思い出と表題の言葉が発された状況はあまりにも違うことばかりですが、とにかく思い出したのでここまで書いてしまいました。

 

 

 

 

「夢を、少しの間、みさせてもらえないでしょうか。」

  

彼らのお仕事の重要な要素のひとつとして、夢に向かって前に進み続け、ひとつひとつ目標を達成していく姿を見せることがあると思います。

 

いつかこんなことをしたいといったぼんやりとした夢や、ただの大きな夢ではなく、

この日にこのステージに立つ、という、スケジュールの次元に落とし込まれたみちしるべとして、

2021年4月29日幕張メッセ公演 という決定事項があることが大事なんじゃないかと思います。

 

アイドルって、夢を見せてくれるだけじゃなくて、夢を見る姿を見せてくれて、一緒に夢を見させてくれて、一緒に夢を追いかけさせてくれる存在でもあるんですねぇ。

 

 

 

ちなみに大学受験の結果ですが、後期で出願したB大学に合格した私はバタバタと親元を離れて一人暮らしを始めることになります。

その道に進むかわからない、と言いながら進んだ大学でしたが、結局今はそこで学んだ専門性をおおいに活かした技術職に就いています。

 

 

彼らの前に進み続ける選択そのものが、きょうも彼らを前に進めていると信じて。