いつもの紅茶にひとくふう
※この記事は MeseMoa.ホワイトデーイベント2022 in 豊洲PIT のネタバレを含みます。って注意書きしたけどたいして書いてなかったわ。
最近いれた紅茶。お花見配信にかこつけて。
ホワイべから日常に戻ってきた。
その週は寒い雨の日が続き、低気圧にダメージをうけない推しを羨みながら仕事をしていた。
最後の一曲、というかその前の白服さんのお話から最後の一曲、を反芻していてふと思い至った。
あの白服さんのお話、もし同じようなことを他の誰かが話していたとして、私はそれをちゃんときけるだろうか?
私はやろうと思えばこの世のすべてにダメ出しできるような、やたら批判的で斜に構えた人間だ。正面から受け取るなんてきっとできない。
なのにあの白服さんの言葉を、あのあすひを、私はまっすぐ受け取って、素直に自分と照らし合わせることができた。
それはもしかして、彼が、彼らが、アイドルだからなんじゃないか?
そして私が彼らを信じているからなんじゃないだろうか?
アイドルがこちらにみせるものは限られている。こちらから知り得ないことも多くて、疑いはじめればキリがない。あのエピソードは作り話かもしれない、大笑いしているのも演技かもしれない、こんな言葉きっと口先だけだ、とか。
だけど私はとにかく彼らがみせてくれるものがすべてだと思うことにして、みせてくれるものを信じる日々を送っている。(信じることについて書き始めたら大変なことになる気がするけど、とにかく信じることにしているのだ。信じたままでいられるのはありがたいと思っているし、推しが彼自身を信じさせてくれるところも好きだ。なにもかも嘘でもそれはそれで良い。)
そうやって日頃から彼らを信じるようにしているから、3月5日の金山できいたフリラ最終日のとみたけさんのご挨拶も、ホワイべの白服さんの言葉も、当たり前のようにすっと信じて正面から受け取ることができたんだと思う。
例えば歌手やダンサー、俳優、芸人…etc.は、それぞれが専門とするものを通して、その作品やパフォーマンスでみるひとのこころを動かす。
けれどアイドルはたぶん、そのどれをやったっていい。それがそのアイドル自身のスタイルに合うのであれば、きっとどんな手段を取ってもいい。
みるひとの心を動かすために、ステージで歌って踊るだけじゃなく、自分たちが楽しんでいる姿をみせたり、できないことをみせるときもあるし、そういう姿はみせないというやりかたをとることもできる。なにもフィールドはステージ上に限らない。写真や動画をアップしたりブログを書いたりツイートしたり、あるいはそういうことをしなかったり、そのひとつの手段の中でのみせかただって無限大だ。
ホワイべだってそうだった。いろんな手段をとれるって、アイドルの良いところのひとつだなあと思った。
そんなアイドルとして活動するいまも、フォーゲルさんが「踊ってみた」を続けていてくれていることがあらためてうれしい。
きっと、彼のやるべきこと・できること・やりたいことの重なる部分に、踊ってみたがいまもあるんだと思う。やりたいことの範囲に踊ってみたがあるとわかるのは素直にうれしい。12周年おめでとうございます。
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やろうと思えばこの世のすべてにダメ出しできてしまう私は、自分にダメ出しするのも得意だった。
気づかないうちに自分にダメ出しをしすぎて身動きがとれなくなったこともある。
あのときの私の幸せってなんだったんだろう。思い返しても出てこない。思い出せるのは、今日も仕事が終わらなかったと思いながらパンをかじって乗る終電とか、夜中にごめんなさいと心で言って回す洗濯機とか、寝ても起きても変わらない外の暗さとか。そういえばあの頃の私は、幸せどころか疲れたもしんどいも辛いも感じていなかった。いろんなスイッチをオフにしてまいにちにおわれているうちに、身体が壊れて病院に運ばれた。心も壊れていた。
そんなこともあったから、自分の気持ちに自分で気づけることは心がうるおっている証だと私は思う。
例えばライブをみているときの私は、目の前のステージや会場でおきるいろんな刺激と、それを受けて自分の中に湧き上がる感情を、自分が持つ一番精度の高いセンサーで受信している。
彼らのまぶしさは心を明るくあたためてくれるし、そのひかりで照らされて心に置いていたものがみえてくる。
彼らをみているうちに、日々で磨耗したセンサーが修理されて、オフにしていたスイッチがオンになって、消えそうだった灯がともって、私の心はゆたかにうるおう。
3月19日も、自分の日常を抱えながらも豊洲に向かって、日常を忘れてたくさんの非日常を味わって、そして最後、あんなにもキラキラした非日常のはずのあすひが日常でできた心のほころびにしみこむのを感じた。
あしたからまたがんばろう。顔をあげて、よみがえった心を持って帰った。
ライブやイベントは非日常だ。だけど推しに関して言えば、こちらの日常に入りこむように日々活動してくれる。
現場で日常を忘れて非日常を楽しむのも、そんな非日常の空間で日常に思いを馳せるのも、日常のなかにふとあらわれる推しに心をふるわせるのも、全部私の栄養だ。
まいにちにおわれるだけでは、せかいがキラキラほほえみかけていてもめのまえをこころがうつすことはない。
こころがうつせなければきっとせかいのキラキラは受信できないし、それに心が躍ることもない。
私が休日、窓を開けて風を感じて、そうだちょうどいいと思い立ってキャンドルに火を灯して、いつかもらった紅茶をいれて、音楽をかけて、本を読んで、手紙を書いて……そんな時間を楽しめるのは、心がうるおっているからだ。
たとえまいにちにおわれることに変わりはなくても、それでもあすのひかりをねがうことができるだけで、すこしとおまわりしてみたりいつもの紅茶にひとくふうしてみたりすることができるし、そのきらめきに幸せを感じてまた心をうるおすことができる。
直接関係ないように思えるかもしれないけれど、私がせかいのキラキラを受信して“いつもの紅茶にひとくふう”できるのは、彼らのおかげなのだ。
ちなみに私はコーヒー派なので「いつもの紅茶」はない。