名前を呼ぶということ

私が初めてフォーゲルさんにきよみという名を呼んでもらってから、今日で1年です。

それはトークコール会、すなわちお電話でのことでした。

 

電話やビデオ通話等を利用したトークコール会やオンライン特典会と呼ばれるイベントでは、申し込み時に「呼んでほしい名前」を記入する欄があります。

アイドルさん側が、次はこのひと、と発信してくれて、きっと確認する意味もこめて名前を呼んでくれます。

受信側がきよみかどうかにかかわらず、彼は次に通話するひとが「きよみ」だと分かっています。



今月の対面特典会で、私は初めてフォーゲルさんにあうことができました。

ブースに入った瞬間、マスクをしている私を見て彼は「きよみちゃん!??!?」と驚いた声で名前を呼んでくれました。

そのとき私は初めて、彼はほんとうに私のことをきよみとして認識しているんだ、と思いました。

 

今までお話しさせていただいた時間のなかでも、彼が、きよみと名乗るひとがいること・その名前のアカウントがリプライを送ったり配信にコメントしたりしていることを認識してくれている、と感じることはありました。

きよみというアカウントからこんなリプがきたという記憶や、きよみちゃんはこういうひとだというイメージを少し持ってもらえているように感じる場面もありました。

 

でも、次に話すのが誰か分からない状態の彼のもとに私が向かうのは今月が初めてで。

その状態で「きよみちゃん」と呼ばれて初めて、彼が私の姿ときよみという名前を一致させて記憶していることが分かったし、

その場で今までにお話ししたことを振り返る中で、彼が私の姿をみて脳内のきよみフォルダを開くことができて、その中のデータを引っぱり出せることを、初めてちゃんと知りました。



 

覚えていなければ、名前を呼ぶことはできない。

名前を呼ぶことは、覚えていること、忘れていないことの証明になりうる。



名前を呼ぶとき、その名前のひとを想わないひとはいないと思います。

 

 

先日の全員放送で気まプリさんが、

東京と関西を行き来していたとき、「名古屋ぐらいで気まぐれプリンスになってた」「帰るときは名古屋ぐらいで本名のほうの自分に戻ってた」とおっしゃったように、彼らのその名前は彼らの活動・人格・見た目などに密接に結びついたものだと思います。

ちょっと逸れるかもしれませんが、気まプリさんってよく「自分気まぐれプリンスで良かったぁ」というようなことをおっしゃっているイメージもあります。

彼らの名前は、彼らがその名前ですごしてきた時間、やってきたこと、その人格として存在することに直結するもののような気がします。

 

フォーゲルさんの名前を呼ぶということは、当然彼のその名前を知らなければできないことです。

知っているから呼べる。覚えているから呼べる。想っているから呼ぶ。

 

まじで緑推しありがとう

もちろんイルミィもありがとう。

 

(略)

 

これは本当にたまたまだけど

今年が自分のセンター曲でよかったのは

そのおかげで緑推しの事を

想像する時間ができたし

これが他のメンバーのセンター曲だったら

もしかしたら自分はもっと

胡座をかいていたかもしれない。

 

(略)

 

緑推し、ありがとう

 

みんなが言葉にできなくたって

動画や放送等々見てくれるだけでありがたい!

それは言葉にできなくても数字として見えるから

 

応援してくれてるだけで嬉しいから

何もできてないなんて思わないでほしい

知ってくれてるだけで万々歳🙌

https://lineblog.me/musumen/archives/8456130.html

 

 

2020年からのフォーゲルさんは、「緑推し」と口にすることがたくさんあったように思います。

私はそれ以前の彼を深く知りませんが、彼が「緑推し」と発したときの緑推しの先輩方の抱えきれなさをみるに、きっと今までそんなに頻繁に発してきた呼称ではなかったのだと思います。


2月末、烏合之衆お披露目ライブ前日の配信。

「緑推しの皆さんはお待たせしました」

「つい緑推しの方々ばっかりの言葉にはなってしまうんですけど、やっぱり、初めてのセンターっていうのもあったんで、今まではセンターじゃないことに対して僕的にはネガティブになったことはないですけど、センターになったらなったで、やっぱり、自分の推しもすごく喜んでくれるっていうことがすごく身にしみて分かったんで」

「ここまでありがとうございますって思います」

https://live.line.me/channels/2086993/broadcast/13016468

 

8月、お誕生日の配信。

「緑推しに関して言えば毎年ちゃんと言うの聖誕祭ぐらいかなと思うんですけど、ほんとに毎年毎年、感謝してるなって・・・え、なんかぐむ〜!

「僕がこんなに悔しいんだったら、緑推しの方々は満をじした年になるのかなあと思ってもいたので、それがかなわなかったときっていうのは……」

https://twitcasting.tv/forgeru/movie/633034171

 

12月末、年内最後の配信。

「今年は俺を知ってくれてる人との向き合い方がめっちゃ変わったなって自分の中で思ってて」

https://twitcasting.tv/forgeru/movie/659102524

 

2020年はこちらのことをたくさんたくさん考えて、なにかに取り組む目的のなかの、こちらのために、という軸の比重を大きめに、私たちの日々のなかに楽しい時間をつくれるように行動してくれたのだと思います。

 

思うように動けない日々のなかで、特別大きな想いで彼をみてきた緑推しのことを考えて、あえてイルミィ全体ではなく「緑推し」と呼ぶ機会が増えたのかなあとなんとなく想像します。

特に緑推しにあてたい言葉や想いがたくさん生まれたということかもしれない。

彼が「緑推し」と言ってくれるときは、他のイルミィさんと特に区別したいときであったり、その範囲に該当するひとたちに特に伝えたいことがあったり、そういう場面なのだと思います。

彼がもともと範囲を限定して言葉をあてることが多くなかったからこそ、「緑推し」と呼んで話してくれることは緑推しに向けられているのだということをよりくっきりと感じます。

ひとの思考なんて分からないけれど、きっとそのときの彼の脳裏には、何らかのかたちで緑推しがいるはずです。緑推しを想って、「緑推し」と口にしてくれている、そんな気がします。




先日のノックソさんの配信で、むすめん。・MeseMoa.の楽曲に度々登場する「名前を呼んでよ」という歌詞に関してお話しする場面がありました。

「声に出さなくてもたぶんいいんですよ、声に出して名前を呼んでっていう歌じゃないと思うので、『陽之鳥』は」

https://twitcasting.tv/nokkuso/movie/678820860

 

声に出して名前を呼ぶことで、そのひとを想っているということを表に出せるのだとしたら、

心の中で名前を呼ぶことは、想うことそのものではないでしょうか。



 

“名前を呼んでよ”




あなたのことを好きになってから、あなたのことを考えなかった日なんて一日もない。

私の思考に、感情に、フォーゲルさんの名前が登場しなかった日はない。

私の脳にその音が響かなかった日はない。心でその名前を呼ばなかった日はない。

 

 

 

初めてお話ししてから1年経った今もなお、私がライブ会場に足を運ぶことはまだかなっていない。

私がライブ会場で名前を呼べる日はいつになるかわからないけれど、

ずっと心の中で名前を呼んできたし、きっとこれからもずっと、心の中で名前を呼び続ける。

ずっと、フォーゲルさんを、想い続ける。