推しのお誕生日をお祝いしたい

フォーゲルさん、お誕生日おめでとうございます。

ブログを書くつもりなんてなかったのに、お誕生日までの残り数時間、あまりに落ち着かなくていてもたってもいられずPCを開いてしまいました。拙い文章になること確定。今から何書くんだろう私。

2021年8月7日に向けて、私はなんだかいろんなことを考えてきました。だけど、結局まとまらないまま「推しの誕生日」を迎えようとしています。

 

考えたというのは、主に、「推しをどうお祝いするか」ということ。伴って、「祝う」とはどういうことなのか、ということ。

そもそも私の「お祝いしたい」という気持ちは、なんなんだろう、とか。

贈ることのない花束。本人が口にしないケーキ。写真に撮ってメッセージとともにSNSにアップする。それがどういう行為なのか分からなくて、答えを探すかのように、本人不在で推しのお誕生日を祝ういろんなオタクが漂うネットの海を泳いだ。

 

私の「お祝いしたい」は、噛み砕くとおよそこういったものだった。

お誕生日という大切な日を教えてくれていることに感謝して、特別大切にしていると示したい。

彼が生まれてきて、生きてきて、生きていることに、自分がよろこびを感じていることを表したい。

この日を迎えた彼におめでとうと思っていることを伝える手段がある幸せを表現したい。

 

これらは、私の発する「お祝いできて嬉しい、幸せ」といったメッセージの背景でもある。

 

じゃあどうしたら表現できるのだろうと考えて、いろんなところを通ったけれど、結局支離滅裂なまま着陸することになってしまった。100日前の幕張メッセ公演の頃はおろか、それより何十日も前からお誕生日どうしようだのカウントダウンどうしようだの考えていたのに、結局このありさまだ。これは来年に備えてこのまま365日考えるしかない。

とはいえなんやかんやと手を動かしながら見えてきた軸のようなものもあった。

この一年の彼の歩みを記念したい、称えたい、ということだ。

彼はいつもがんばっていて、いつもすごくて、すごいはやさで、だけど息切れしないように走っている。ときに仲間の手をかりたり、仲間に手をかしたりしながら。

そのがんばりを、輝きを、お誕生日をひとつの区切りとして、形にしたかった。

だから、たくさんアップしてくれたお写真をまとめたり、この一年のグッズを飾ったりした。結局ネットの海のオタクと大差ないことをした(と思っている)ので、もしかしたら世のオタクたちもこういう気持ちでフォトフレームに写真を入れてきたのかもしれない。全然違う意図でチェキを並べてきたひともいるだろうけれど。

結局私のやったことで表現ができたかというと微妙だし、私がひとりで推しのすごさを再確認して好きが増しただけ説は濃厚だ。やっぱり今から来年に向けて考えて動くしか。

 

何の話だ。

とにかく、今年うまく推しのお誕生日をお祝いできたかというとよく分からないが、2020年緑推しの範囲におそるおそる自分を入れてみたような(去年のブログ)ド新規緑推しからすれば、初めてきちんと推しのお誕生日をお祝いしたいという自分の気持ちに向き合った期間だったことは確かだ。

お誕生日をお祝いするという当たり前のような行為に至るまでの気持ちを分解したのは初めてだ。それもこれも、人生で初めての推しを推しているからこその経験だし、そこにあった気持ちは、フォーゲルさんという推しと自分のこの関係性、この環境だからこそ出逢えたものだ。こうしてまた、フォーゲルさんを応援していたはずが気づいたら知らなかった感情に出逢わせてもらって、自分の人生を豊かにしてもらっている。それでまた私は推しに、そうしてそこにいてくれてありがとうと思う。生まれてきてくれて、生きてきてくれて、生きていてくれて、そして、フォーゲルさんとしていてくれて、ありがとう。

 

 

大人だからわかっている。人生幸せなときばかりじゃないことだって。それが悪いことではないことだって。

だとしても、推しにはできるだけ長い時間幸せを感じていてほしいし、自分のせいでないことで悔しく苦くやりきれない思いをする瞬間はできるだけ訪れてほしくないと思ってしまう。幸いにも推しは日々ラッキーやハッピーを感じるのが得意なようだけれど。

それにしたって今日だけは、まっさらな未来を願いたい。まっすぐ前を向いて信じたい。

 

 

フォーゲルさん、

あなたの選ぶ道に光が、進む景色に笑顔が、歩く先に幸せが、あふれていますように。

願わくば、いつもあなたが私たちにくれる抱えきれないほどありったけの幸せが、あなた自身のもとにもおとずれますように。

 

お誕生日、おめでとうございます。